イタロ・カルヴィーノ『不在の騎士』
カルヴィーノの『木のぼり男爵』や『まっぷたつの子爵』は読んでいたが、この『不在の騎士』は近所の本屋になかったために未読だった。しかし、三部作の一つだけ読んでいないというのも気持ちが悪かったので、amazonで購入し、先日一気に読了した。
もともとカルヴィーノに興味を持ったのは、2chの文学板に「偽カルヴィーノ」なるコテハンがいたからである。高橋源一郎のスレッドかなんかで彼の発言を見て、どうもカルヴィーノという作家も面白そうだと思ったのが最初だ。まあ、それもかなり昔の話で、私も2chを見なくなって久しいし、おそらく偽カルヴィーノ氏ももう2chには書き込んでいないだろう。
- 作者: イタロ・カルヴィーノ,米川良夫
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2005/12/03
- メディア: 文庫
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この小説は、もちろん騎士道物語のパロディでもあるが、記録すること、そして物語になっていくこと、そうしたテキストが編まれることに関する小説でもある。彼は正確な記録の中にしか存在せず、また騎士道精神を忠実に実行することによってしか存在できない。こうしたあり方は、他の騎士たちのあり方と衝突することになる。すなわち、尾ひれがついて英雄となっていくような騎士たちに対して、正確な記録を通して彼らの事績を訂正しようとするのである。法や騎士道精神に忠実すぎることもあり、アジルールフォは有能ではあるが疎まれる存在として描かれている。
騎士道に忠実な騎士は不在の騎士としてしか存在しえず、肉体をもった騎士の事跡は記録によって訂正されていくという事態は、理想の騎士というものは伝説の上でしか存在しないことを意味している。このことが示唆するのは、記録と物語との差異、テキストの中の存在と肉体をもったものの存在との差異、である。それは、物語の語り手がまさに物語を飛び出していくような結末でも明らかであろう。
そして、このような差異によって浮き上がるのは、杓子定規の記録や法との対比の中で、肉体をもつ者が、肉体をもつが故の苦悩にさいなまれながらも、同時に自由や未来を手にしているということである。不在の騎士は、記録や過去にしか存在しえず、肉体をもつ者はそれを越えていく可能性をもつものであることが謳われているのである。
やや二項対立が強調され過ぎているきらいがあるが、寓話的で楽しい小説である。自信をもって多くの人に勧めたい。