普遍的人権と文化・補足

tari-Gさんへの補足

前回の記事にid:tari-Gさんから、

sadamasatoさん。今回に限らず、これまでの姿勢から彼等の多くは人権の「普遍性」については懐疑的に考えていると理解しています。今回の引用文の限りでも岡真理自身がそのように見えますし。*1

というブクマコメントをもらいました。

id:font-daさんのブログで引用された文章を読んでも、岡真理さんが人権の普遍性に懐疑的であるとは読めませんでした。もちろん、文化と普遍性を対立させるような思考が否定されるという意味では、カッコつきの「普遍性」は批判されることにはなります。岡さんは以下のように述べています。

〔ある種の西洋フェミニズムの主張は=引用者注〕西洋が他者を(被)抑圧的なものとして一方的に規定するという行為によってのみ担保されているのであり、そのような「普遍的」人権やフェミニズム、これら当該社会の女性たちが与しないのはある意味で当然のことだろう。*2

ここでは人権の普遍性が問題視されているのではなく、第三世界の女性たちに対して差別的な眼差しでもって「普遍的」人権を唱えることが問題視されているわけです。
あくまで、差別的な眼差しに基づく「普遍的」人権が批判されているということは、以下のように「西洋が主張するような」人権と強調されていることからもうかがえます。

西洋が主張するような人権の普遍性に対して疑義を表明すると、「原理主義者」「狂信主義者」というレッテルを貼る。*3

もちろん、このような書き方をしたからといって、文化擁護の立場から女性器切除を擁護しているわけではありません。

私は、女性に対する他のあらゆる暴力と同様、性器手術を許し難い暴力であると考える。*4

と岡さんは述べ、更に、

繰り返し言おう。性器手術は批判されねばならない。性器手術の習慣を批判することがレイシズムなのではない。植民地主義的なのでもない。私たちがそれをいかに語るか、その批判のあり方が問われているのだ。*5

と繰り返しています。
暴力は許さないという普遍的立場から、女性器切除は批判されるべきです。しかし、「普遍的」人権vs文化という対立図式で批判することは、文化の中から女性の抵抗が可能になるということを見落とすような差別的な眼差しを持つということ、また第三世界に対する自らの経済的搾取から目をそらすということから、問題視されるわけです。
文化と普遍的人権は対立しません。文化と普遍的人権を対立させるのは、ある文化を野蛮なものとして固定的に見る眼差に由来するものです。

ハリーフェ、アブーゼイド、クレイフィらが描いているのは、一女性の抵抗によって表明される、民族の文化にほかならないと言えるだろう。そこにおいて、「民族の文化」とは、普遍的人権とア・プリオリに、相互排除的に対立するものではなく、むしろ、普遍的人権そのものの実現ではないか。*6

岡さんは、人権の普遍性に懐疑的ではありません。ただ、カッコつきの「普遍的」人権と文化を対立させる眼差しに潜むものに対して、批判的だということです。

andalusiaさんにお返事

id:andalusiaさんからトラックバックをいただき、

では、
「文化を尊重しながら、その文化の内部の運動を通して女性の身体保全という人権を可能にしていくということ、そのようなことが目指されるべきではないでしょうか。」
との主張についても簡単に触れておきます。
 
南アフリカアパルトヘイトの廃絶には、内部の運動(ネルソン・マンデラ氏のような)があったのは事実ですが、外部からの圧力(経済制裁やオリンピックへの参加拒否のような)も重要な役割を果たしたのは厳然たる事実でしょう。外部からの圧力がなければ、アパルトヘイトの廃絶は行われなかったか、もしくはもっと遅れていたであろうことは想像に難くありません。
 
現在も、毎日6,000人の少女に女性器切除が行われていると言われます。このような現状で、「経済制裁のような外部からの圧力」をかけるべきか、かけないべきか、という選択(トレードオフ)はやはりあるのであって、そこに目をつぶってはいけないと思います。
 
私は、それこそが「判断からの逃げ」であって、「自らの責任を隠ぺい」しているように思います。*7

との批判をいただきました。それに対してお答えします。

一言でいえば、経済制裁などを持ち出すことそれ自体が、アフリカの経済的貧困に対する当事者意識の欠如であり、自らの責任を隠ぺいしているのはandalusiaさんだろうということです。ソマリアに対して経済制裁をすれば、女性器切除を根絶できると、本気でお考えなのでしょうか?

もちろん、女性器切除に反対することは大事です。私は、前回のエントリで、「女性器切除に対して反対の声を上げつつ、アフリカの経済格差(搾取)を解消していくことによって、女性の教育や経済的自立が可能になることが大事ではないでしょうか」と書いた通り、女性器切除に反対すること、切除から逃れてきた女性を保護することを通して、切除を受けなくてもよいという選択肢を提示することは大事だと考えます。

しかし、搾取や差別的な眼差しによって抵抗の声を消し去っておきながら、「経済制裁のような外部からの圧力」を持ち出すのは、無責任極まりない言明だと言わざるを得ません。自分たちが、アフリカの女性たちの抑圧に加担していることはきれいに忘れ去られています。

もちろん、あらゆる外部からの圧力を許さないと言っているわけではありません。女性の抵抗の声を潰そうとする内部の動きには、厳重に対処すべきでしょう。ですが、単純に外から圧力を加えることについての弊害は、
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20090926%231253967001
で人類学者の小田さんが述べている通りでしょう。内からの抵抗の声が強くなっている時に外から働きかけるのは、有効に働くだろうと考えます。外部からの圧力自体を否定しているわけではありません。しかし、内部からの抵抗が出にくいような構造に加担しながら、「経済制裁のような外部からの圧力」を云々するのは、明らかに順序が逆であり、顛倒した議論だと思います。

*1:http://b.hatena.ne.jp/tari-G/20090925#bookmark-16255662

*2:岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』、青土社、42頁。太字部分は原文では傍点。

*3:前掲書、43頁、太字部分は原文では傍点。

*4:前掲書、119頁

*5:前掲書、139頁、太字部分は原文では傍点

*6:前掲書、111頁、太字部分は原文では傍点

*7:http://d.hatena.ne.jp/andalusia/20090925#c1254358865