藤井貞和の詩集

クリスマスイブに、藤井貞和の詩集をパラパラめくって読んでみる。

神の子犬

神の子犬

藤井貞和は、源氏物語や物語理論の研究などでも有名な国文学者にして詩人。高橋源一郎がお気に入りの詩人の一人に挙げていたので、高橋源一郎を通して彼の詩に触れた人も多いのではないだろうか。かくいう私もその一人である。

上記の二つの詩集は、911テロからイラク戦争への流れ中で書かれた詩も多い。

抑止切れ、
たったいま、
威嚇の音!
(……中略)
遠のくか、
いま至った歴史、
苦よ!
                       (チェーン1)

上記の詩は、2001年10月13日に読売新聞で発表されたもの。911テロの後、アフガン戦争へと高まる機運の中、多くの人たちが手をつないでぐるっと囲むという、いわゆる人間の鎖で包囲するという抗議方法を真似て、回文詩を作ることで言葉の鎖、チェーンを試みた作品である。また同時に回文詩であるために、日本語として通りのいいような詩になっていないということも重要であろう。日本語として美しい場合、その美しさのゆえに、逆にスッと通りすぎてしまうことがある。しかしこの詩は、ごつごつとして読みにくい言葉となっているが故に、読んでいて幾度か立ち止まり、また戻ったりしなければならなくなる。そうやって簡単にやり過ごしていけないような詩として、この詩は我々に現れるのである。

もちろん、詩集『神の子犬』は戦争や政治についてうたった詩ばかりではない。

黒い翁が、とびらをひらく。地べたで、幻獣が、舞う。
  私かな。 私なら、「いたち」で、きのうまで、いたところ。
                        (病む母)

上記のような、詩が、正確に言えば詩の母胎となる「うた」が立ち上ってくる場所を詩で描くような詩や、言葉が物語として編まれていくような瞬間をおさえようとする詩など、藤井貞和らしい詩がたくさんある。しかしまた言葉が、まさに人々を戦争へと駆り立てていくものである以上、言葉の始原に立ち返りつつ、言葉を抵抗するものとして仕上げなければならないという課題をもつのである。そしてそのような課題に取り組むために、「呼びかけ」、「ステートメント」などの直球的な反戦的な詩以外にも、裁判で琉球語の使用を拒まれたという事態を扱い、いわば政治が言葉を奪おうとする事態を描いた「火炎うた」や、「敗戦」などの記憶から歌と言葉が立ち上ってくるような穏やかな詩まで様々な試みがなされる。そしてその試みは、以下の詩集にまで続く。

人間のシンポジウム

人間のシンポジウム

この詩集は、人間のシンポジウムと銘打って、人間や死者、植物や鉱物、森や海や川の生物、過去、現在の精霊たち、そういったものがさまざまな発言をなしていく詩集である。ここで討議の主題になるのは、人間の世界の難問である。

ベイルート、バクダッド、サラエボベツレヘム、カブール、
と女性詩人は書いて、「無論、ここではなくて」と、
書き加える。 無論、ここではなくて、われらは、
限定された死後の手を挙げる。 すくっと上げて、どうする?
「廃墟の中の学校」を見てきたばかりで、何が書ける?
好きになれない詩を、きっと書くことだろう。 書いた後は、
二度と開かないはずのノートが、きみのうえにひらかれていまある。
そう思った? 討議はいまある、と思った? こどもたち。
                        (砂に神の誘い子を置く)

詩が書かれるのは、戦場の、廃墟の中の学校でではない。そして詩は、あらゆる死者をすくい取ることはできない。そうして書かれた詩は、逆説的に、我々に問いを突き付ける。すくい取れなかった死者たちが、詩の空白を通じて我々に呼びかける。好きになれない詩として、しかし目の前でその詩を開かしめるような声として、現れるのである。シニシズムに陥る一歩手前で、テキストの余白の声と力を頼りに、遅れて来た討議を繰り広げるのだ。

この詩集では、神話的なさまざまなものから言葉が発せられていく瞬間に定位しながら、言葉が政治的な暴力となる以前の声を聞き取ろうとする。この詩集は、そうして聞き取られた声による『人間のシンポジウム』なのである。