古川日出男『聖家族』読了

古川日出男の『聖家族』を読み終わった。

聖家族

聖家族

古川日出男自身が「この作品を以て、一作家である私の生涯の半分が終わったと、記憶が告げる」と述べたような力作であることは間違いない。二段組みで計738ページの厚さにもかかわらず、一気に読みきらせるようなパワーがある。また、さまざまな書評を見ても、かなり肯定的な評価が目立ったようだった。

対立の物語?

この小説は、東北の旧家である狗塚家の三兄弟、牛一郎、羊二郎、カナリアを中心とした、東北の語られざる歴史(偽史)をつづった一大サーガということになるだろう。この東北の語られざる歴史と対立するのは、中央によって記録された歴史である。
そういう意味では、この物語は、
辺境と中央
記憶と記録
の対立の物語と読むことができよう。

たとえば、扉二(第一章、第二章という代わりに、本書では扉一、扉二という形になっている)では、「聖兄弟」と「地獄の図書館」という節が交互にあらわれる。「聖兄弟」は、牛一郎、羊二郎の兄弟が、その体に妄想の東北を宿しながら東北を遍歴する物語、「地獄の図書館」は妄想の物語を、地図という正確な記録のうちに抹殺していく物語という形に読める。この両者は、東北の語られざる歴史の記憶と、異端の者たちを抹消していく記録という対立構造をもっている。

もう少し、詳しく書こう。
「聖兄弟」は、天狗や神隠しにあった者たちの異能の技を体に記憶させながら、妄想の東北を体に体現しながら東北を遍歴していく物語である。彼ら兄弟は、自らの肉体を修羅の肉体と化すことによって、正史では語られなかった者たち、異能の、異端の者たちの記憶を体に刻み込んでいく。
「地獄の図書館」は、「見えない大学」の教授である三兄弟の両親が、東北を旅行しながら、地図を買い求め、記録を通して妄想の東北を抹消していく。「見えない大学」は、扉三で、記録されないものを抹消していく人材を育成する機関として描かれている。
聖兄弟と地獄の図書館が交互に現れる扉二は、記憶と記録、偽史と正史、異端と中央、父と子、という対立を孕みながら進んでいく。
こう見れば、この『聖家族』という物語は対立の物語であると結論できそうに見える。

しかし、事態はそう簡単ではない。
扉四では、「記録シリーズ」と「聖兄妹」が交互に現れる。ここでも、記憶と記録が対立するようにみえる。しかし、実際はこの扉四はそのように簡単な対立構造をもっているわけではない。記録シリーズで現れるのは、正史としての記録ではないからだ。たとえば「記録シリーズ・鳥居」は、絵馬に名前と願いを記録していく営みである。また、記録シリーズの最後は「記録シリーズ・DJ」である。DJの扱う記録はレコードの記録である。しかしその営みは、レコードの記録を、逆回転させ、ループさせ、別のレコードへとつなげていく営みである。いわば、記録をシャッフルし、改変していくことによる新生の営みである。ここでは、記憶と記録の対立は単純には見出されない。

さらに扉五では、狗塚カナリヤの記憶を通じて、その夫である冠木十左の家である冠木家の記憶としての歴史が語られる。カナリアの夫の十左は、記憶を抹消する側であるの見えない大学の教官であるが、同時に「神隠しに遭う必要があった」と述べる。神隠しに遭った者は異端となる者であり、また冠木家の歴史も、異人の歴史である。ここにおいては、記憶する側と記録する側がもはや不可分になっている。

産み直し

記憶と記録は対立するが、しかし、物語が終盤に進めば進むほど単純な意味では対立しないものとなる。
カナリアは出産するたびに、「この世を産み直してる気がするね」と述べる。また、DJはレコードという音楽の記憶を、新生し、生み直していく。記憶と記録の対立は、産み直しという営みを通じて、対立は解消されないままに、しかし一つの事態となっていくのである。何度も出てくる、鳥居=参道のイメージは、カナリアの産道となる。そこで産み出されるのは、物語である。記憶と記録の対立の中で物語は何度も産み出され、そのたびに世界は産み直されるのである。『聖家族』は、記憶と記録のはざまで、物語が生み出され、世界が新生していくような、そのような物語なのである。