実存とは何ぞや

いつも楽しみに読ませてもらっているid:F1977さんのブログにhttp://d.hatena.ne.jp/F1977/20090315/1237100983という記事があがっていました。

そこで実存について、

びびびーん!と感じたものはすべて、「実存」なのです。

という秀逸な定義に出会いました。

F1977さんによると、新書一冊読んだだけでこの理解に達したとのことですが、これが正しい理解だということを補足的に述べておきたいと思います。

実存の定義

実存という語は、使っている人によって様々に定義されています。
それらについて簡単に見ていきましょう。

ハイデガー

ハイデガーキェルケゴールの「人間とは関係に関係する関係である」という人間の定義を受けて、実存を「自己自身に関係する存在」とか「自己自身の可能性を生きる存在」と定義しました。

例えば、金づちという道具を考えてみましょう。それは「釘を打つため」にある道具であり、私たちの道具の使用の中でその存在が発揮されます。金づちを使うのは、それで家などを作って私たちの生活に役立てるためです。基本的に、道具は私自身の生活に役立てられることを目的にして作られています。

一方、私たち自身はどうでしょうか?道具のように、何かに役立つために作られたものではありません。むしろ、道具のような手段としてではなく、道具を使うための目的として存在しています。そのようなあり方を、自己自身に関係する存在とハイデガーは考えました。私が金づちを使うのは、私自身の生活を良くするためであり、私たちのあり方はいつも自己自身に関わっているのです。金づちを使う、ビールを飲む、ブログを書く、そういった様々な選択肢があります。こういった選択が可能になるために、私たちはいつも自己自身の可能性と関わっており、そこから自己自身のあり方を選択していくのです。

サルトル

ハイデガーの実存の定義を受けて、サルトルは「実存は本質に先立つ」と言いました。

道具はその目的にそった設計図を先に考えなければいけませんが、人間の実存の場合は設計図というものが先にありません。自分のあり方は、作った人に決めてもらうのではなく、自分自身で決めなければならないのです。

そこでサルトルは人間の実存の自由を強調していくことになります。ハイデガーは、与えられている選択肢や可能性は社会や歴史に制約されているということを強調しましたが、サルトルは「自由という牢獄にとらわれている」みたいなことを言って、自由を強調したのです。

ヤスパース

ヤスパースという哲学者も、実存という語を使っていました。

彼は、ただ惰性で生きているような「現存在」という状態と区別するために、「実存」という語を使用しました。

たんに生きるのではなく、理想や理念に向けて生きるような、自己の可能性が本当の意味で発揮されるようなあり方を実存と考えたのです。

びびびーん!と来ること

そして、F1977さんの「びびびーん!と感じたものはすべて、「実存」なのです」、という言葉に戻りましょう。

F1977さんは、以下のように書いています。

レジスタンス!」びびびーん!「かくめー!」びびびーん!「ヒューマニズム!」びびびーん!と、びびびーん!

またここ(この記事自体も素晴らしいものですので、ぜひ読んでほしいと思います)では、「びびびーん!ビール!」とも言われています。

このように、何かと出会うとき、「びびびーん!」と感じることは何を意味しているのでしょうか。それは間違いなく、何かとの出会いを通して、自己自身の可能性が刺激されるということ、生の可能性が躍動していく予兆のようなものと考えられるでしょう。

これはまさに、自己の可能性を可能性として生きるということ、たんに生きるのではなく本来の可能性へと自分を投げかけていくこと、そういう哲学者の「実存」という言葉に相応するような事態と言えます。

私たちはいつも実存しています。堅苦しく考えることなく、びびびーん!と感じたものを大事に、自分の可能性を生きていければと思います。