「現実は残酷である」という論理と喪の倫理

id:hokushuさんの柴村仁、見下ろす、落語 - 過ぎ去ろうとしない過去というエントリに関連して。

hokushuさんのエントリを読みながら、秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』のことを思い出した。そしてまた、桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』も一緒に思い出したのだった。この二つの小説は、同じように残酷な現実を描いた小説だが、個人的な読後感は全く正反対のものだった。この二つの読後感の違いについて述べることによって、hokushuさんの柴村仁我が家のお稲荷さま』批判を検討してみたいと思う。ただ、秋山瑞人の小説は手元にないため記憶を頼りに書くので、もし記憶違いがあれば平にご容赦願いたい。

語ることと語れぬこと

秋山瑞人は、『イリヤの空、UFOの夏』において残酷な現実とそれに押しつぶされる子供を描く。これは秋山の前作『猫の地球儀』から踏襲されている主題である。そしてこの両作品に共通するのは、この残酷な現実を維持しようとする「大人」が、それに抗おうとする「子供」に説教をし、子供はその大人の論理に反論できないという構造をもっているということである。『イリヤ』では榎本がその「大人の論理」を体現し、『猫の地球儀』では僧正がその役目を負う。彼らは、この世界が残酷だと認め、そしてその残酷な現実を維持することこそ大人の役目であることを力説する。子供はそれに反論できず、現実に敗北する。

一方、桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』も同じように残酷な現実に押しつぶされた子供が描かれる。無力な少女は現実に向って「砂糖菓子の弾丸」を放つが、決して現実を撃ちぬくことはできない。ただ、大人の論理を体現するように見えた教師も、現実を変える「スーパーマン」を目指していたことが明らかにされる。ここで大人になるということは、単に現実を肯定することではないことが示唆されている。砂糖菓子の弾丸ではなく、実弾で世界に立ち向かう可能性としての、大人の姿が描かれているのである。

しかし、『イリヤ』と『砂糖菓子』の物語の大きな違いは、事件に対するその後の主人公の態度の違いとして端的に表れている。

イリヤ』において、主人公の浅羽は、いつかこの事件を語れる日が来ることを予感している。同じ新聞部のクラスメイト須藤晶穂に、「何があったのか言いなさいよ」と問い詰められた時に、近い将来彼女に語れるようになるだろうことを感じている。

一方、『砂糖菓子』では以下のように語られている。

(……)生き残った子だけが、大人になる。あの日あの警察署の一室で先生はそうつぶやいたけれど、もしかしたら先生もかつてのサバイバーだったのかもしれない。生き残って大人になった先生は、今日も子供たちのために奔走し、時には成功し、時には間に合わず。そして自分のことについては沈黙を守っている。
 あたしもそうなるかもしれない。
 あたしは、暴力も喪失も痛みもなかったふりをしてつらっとしてある日大人になるだろう。友達の死を若き日の勲章みたいに居酒屋で飲みながら憐情たっぷりに語るような腐った大人にはなりたくない。胸の中でどうにも整理できない事件をどうにもできないまま大人になる気がする。だけど十三歳でここにいて周りにはおなじようなへっぽこ武器でぽこぽこ変なものを撃ちながら戦っている兵士たちがほかにもいて、生き残った子と死んじゃった子がいたことは決して忘れないと思う。
 忘れない。

ここに、二つの物語の架橋しがたいほどの差異が見出されるだろう。

イリヤ』の浅羽は、語ることを通して忘れていくことを選んでいる。彼にとって大人になるということは「現実は残酷である」という論理を内面化し整理することによって、やがて子供のころの自分を語れるようになるということである。そしてそのことによって、自分が現実に敗れた子供であるということを忘れるのである。

一方、『砂糖菓子』では、語ることを拒否する。自分のことについて沈黙を守る先生の姿に、自己を重ね合わせる。そしてそれは、決して忘れないということを意味する。大人になるということは、砂糖菓子とは違う弾丸を手に入れることであるが、砂糖菓子のような現実に歯が立たない弾丸を撃ちつづける子供に寄り添いつづけることが誓われている。

この違いを次のように言いかえることができるだろう。語ることを通して忘れるという弔いと、語れないことを通して忘れないという、二つの弔いの形の違いとして。両者とも弔いであることは変わらない。ただ『イリヤ』は、今はまだ語れないけれどやがて語れるようになる、という一定の沈黙期間すなわち喪が明けるのに対して、『砂糖菓子』では喪が明けないということに差異がある。「語らず、忘れない」という喪の倫理を抱きつづけることに『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の大きな特徴があるのである。

柴村仁と弔い

hokushuさんが柴村仁の『我が家のお稲荷さま。』をちゃんと読んでいないであろうことは、K_NATSUBATAさんのこの指摘の通りであろう。
主人公の昇と透兄弟がトラブルに巻き込まれるのは、兄の昇が三槌家の当主として地域の霊的な顔役であるということと、三槌の血を濃く引く弟の透が「美味しそう」な匂いで妖怪を引きつけてしまうということに尽きるのであって、母親とはほとんど関係がない。しかし、一巻に限って言えば、死んだ母親を成仏させる話であり、その限りでは話の中心に母親の不在があるということも確かである。

しかし、この作品での弔いは実に巧妙にできている。しばしば死者を送ることが、同時に死者を忘れていくことの一歩となるという点を回避するのである。それは、弟の透ための弔いであるからである。弟には幼くして死別したために、母親の記憶がない。忘れてしまった母親との、新たな絆を求めるという形をこの弔いがとるのである。大霊狐である空幻天狐による御霊送りによって、母親は成仏するのだが、その成仏の前に透と言葉を交わす。ここでの弔いは、死者を忘れるのではなく死者と絆を結び直すという形をとる。

ここで問題は、このような弔いが「不在を突き付けることによって、不在を見下ろす視点をとる」というhokushuさんの批判が当たるかということである。おそらく柴村仁は『我が家のお稲荷さま。』において、そのような批判をすり抜けるような戦略をとっているのではないだろうか。「現実は残酷である」という論理を内面化し忘却するのでもなく、「語らず忘れない」という喪の倫理を抱きつづけるのでもなく、死者と絆を結び直すということを通して、不在を不在として受け取らない道を可能にしている。それ故、続刊では、傷を抱えて沈黙を生きるのでもなく、残酷な現実を内面化するのでもなく、なんとなく好い人が集まってなんとなく善い結末を迎えるという話がつづくことになるのである。

しかし、そこにあざとさがあるのも否めないのかもしれない。柴村仁が『プシュケの涙』ではそのあざとさが前面に出てしまっているようでもある。プシュケの涙でも、自殺した女子生徒を一番悼んでいるであろう人は、そのことについて何も語らず内面も窺えない。しかし、物語が女子生徒の不在を際立たせる形をとることによって、彼の痛みを突き付けるのである。何も語らず進学する彼に代わって、物語自体が間接的に彼の痛みを語るのである。そこには、やはりある種の問題を回避しながら死という事態を語ろうとしている柴村仁の姿がある。ここが問題であろう。

最後に、死と暴力とセックスのことしか書いていない、倫理的な小説を挙げよう。

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

超お勧め。