日本国民の?

私のブックマークコメントに対して、id:kenkidoさんから丁寧なお返事をいただいたので、それへのお返事をしたためます。

納得できる点

前半は、非常に納得できる点もあり、同じような問題意識を共有しているとも思えます。例えば、

さて、八十年代以降、我々日本人は、政治的偏向、非常識、そして非良識と受け取られないよう、とても気遣ってきた。そして我々は、非偏向な、常識的で、そして良識的なと看做されるところにおさまっていこうとしたし、その枠の中での問題認識とそこよりする批判的議論を試みるようになった。それはまた、我々が、知らず知らず、根本的な原理に溯っての批判に貧弱になった、ということを意味する。そして、そこで最も有力な、あるいは有効な手法は、非常識と非良識を見出すことであった。

という一節は、非常に鋭い指摘で、私が普段思っていることを明瞭に言語化していただけたとも思います。ここで言われることは、確かに一部の「良識的」サヨクや、「現実主義的」サヨクの人たちに確かに見受けられることです。

ところで、この常識、良識、そして無偏向の立場であるが、その今の具体的なものがどんなものであるかを述べるなら、それは、(左翼の消滅によって?、)我々日本人が、《日本国民》として、それを持っているし、持っているはずであるし、そして持つべき立場に収束してしまった、と私は判断している。それは歴史的、文化的に日本と意味付けられたところの、政治的、道徳的な社会的結合を踏まえた存在、すなわち国民が有するし、有すべき常識と良識、新たに加えて教養の立場に、終始するものとなった。公正、公平、正義、更には、客観性、すなわち学問の踏むべき方法や、発見すべきもの、そしてその意味付けまで、すべて、《日本国民》ならば持っているし、持っていなければならないものに、整頓されつつある。

ここも半分以上は、頷けます。良識的でリベラルなサヨクは、「みんな」にどう見られるのかという点で批判したり主張したりすることがあるからです。彼らはその「みんな」を「日本国民」という主体として意識しているわけではないとも思いますが、「みんな」が「日本国民」にすり替わる危険性を有しているのは確かなことです。

しかし、学問的方法が「日本国民」すべてがもっているはずのものとされることに強い違和感を覚えます。ふつう、学問的方法は、国民の共有物ではなく、学を志すすべてのものが共通してもっているものであって普遍的なものであるからです。学問を志さない日本国民は別にもつ必要もないものですし、日常的な営みの中で学問的方法論を発揮することはほとんどまれでしょう。そして逆に、学問的方法論には日本人だろうと、モロッコ人だろうと、学術的な営みをなすものは従わなければなりません。

なぜ、kenkidoさんは、学問的方法論を日本国民ならば持っているものとしたのでしょうか?それは、学術的な話をする私を「日本国民さだまさと」と批判するためです。この批判は、「日本国民は学問的方法論を持っていなければならないもの」とする無理な前提と、私の書いたものに対するアクロバティックな誤読によってのみ可能になるからです。

誤解と明らかな誤読

学問的方法論を、「日本国民が持たなければならないもの」とする無意味な前提をもちこむことによって、以下のような批判が可能になります。

三木清に関しての私山下の主張が、日本国民たるに相応しい教養がなく、かつ、日本国民の踏むべき学問的手法により、しかしてまた日本国民ならば持つべきその対象の意味付けに則っていない、と国民さだまさと氏に意識されたことにより、国民さだまさと氏からそのコメントの文言が出たという以外、私山下には解し得ない。

私が三木清の評価が微妙と書いたのは、もちろんそのような意味ではありません。

三木清の『構想力の論理』を読めば、天皇制をフィクションと考えていたことは明白*1です。天皇主権を唱え、日本独自の皇道を唱えた体制とは明確に距離があり、それを批判しているものでしたから、戦時体制の協力者と断ずることに関して違和感を表明したのです。ただ、近衛時代に彼は翼賛体制の構築に関わっていたことは確かなので、自分の言葉が誤読含みだったと書き、謝罪しました。

もちろん、100字のブックマークにそこまで書ききれることでもありませんが、それを「国民にふさわしい学問論」という異様な前提を取り入れることによって、上のような意味だと言われるとは想像もしていませんでした。「国民なら当然……だ」という論法が、そうでない者に対する暴力として作用することを私は強く批判してきました*2から。

そして、嘉戸一将西田幾多郎と国家への問い』への書評も同じようにアクロバティックな誤読をしていきます。

「西田の国家論を問題にすると、「時代に屈した知識人」とセンセーショナルに論じたり、逆にそれに対して「捏造」や「資料を読まずに批判する」と声高に反論するものばかりが目立った。それに対して、西田の国家論を、その背景から浮き彫りにすることを通して、その意義と限界を丁寧に跡付けた本書は、大きな意義があるといえるであろう。そしてまたそれが、西田と戦時体制との関係に対する批判にこたえるものとなっているということも重要である。」

この文章は、kenkidoさんが引用した私の文章です。これが意味しているのは、西田自体のテキストを読み、その意味と限界を明らかにするという世界中で当然に適用されている学問的方法論が今まで欠けていた、ということです。西田を批判する者も、それに反論する者も、ほとんど西田自身のテキストを読みその意味を明らかにすることをせずに、ただ政治的な対立を繰り返していたことが問題なのです。学問以前のものを学術的でないと批判するのは当然のことですし、それは日本に限った話では全くありません。しかし、「学問的方法を日本国民のもの」と限定を加えることによって、以下のような読みが可能になります。

輪をかけて面白いことに、こうした作業は、今日では、良識的であるし、学問的に公平であるし、客観的でもある、とされている。であるから、日を措かずして、常識ともなるであろう。誰のかと言えば、《日本国民》の、である。

嘉戸一将氏の研究が常識になるとして、それはアカデミズム内部であり、世界中の西田研究での話です。しかし、学問的方法論を日本国民のものにしたことによって、あたかもそれを共有できないものは良識的な日本国民に非ずと断言することになってしまうのです。これは、本当に不思議な論理展開です。

私が嘉戸氏の本を評価するのは、今日の象徴天皇制を擁護する言説を根底からひっくり返すようなポテンシャルを西田哲学が秘めており、そこから新たな展望が開ける可能性を指摘したという点です。それは、kenkidoさんがエントリの前半で述べているような、「批判されるべき現実を生み出す原理」にまで届く批判のポテンシャルを有しているものだということを意味します。その上で、西田が時代によく抵抗したとはいえ、明治憲法と自らの体系を接続させようとして、齟齬を来してしまったという指摘も評価すべき点だとしたのです。

ナショナルなもの

私は、自分が日本国民であることを否定しません。個人的にはカント的な世界市民主義を目指したいとは考えていますが、世界市民を自称することによる危険性も十分承知しているからです。日本国民であることを否定することによって、自らが日本のマジョリティーに属することを通して加担してしまっている様々な抑圧を隠蔽してしまう危険性があります。

同時に私は、日本国民の良識や常識を持ち出して、その良識や常識に外れる者を批判したり排除することには反対します。しかし、kenkidoさんは、学問的方法論を「日本国民が有すべきもの」として、学術的な話を「日本国民としてのあるべき姿」の話にすり替えてしまいます。そして、私があたかも「日本国民のあるべき姿」からkenkidoさんを批判したことにしてしまいます。このようなkenkidoさんの批判は、誤解と誤読だということをはっきりとここに述べておきます。

*1:

三木清―人と思想 (CenturyBooks)

三木清―人と思想 (CenturyBooks)

id:sarutoraさんがブックマークで紹介されていた本です。この本自体は読んでいませんが、この本の内容紹介には、私が述べたことと似たことが書かれていますので、参考に挙げておきます。

*2:私のブックマークページから、「暴力と政治」や「反差別」というタグのついたものを参照してください