恥を巡ってもう少し

sumita-mさんから、トラックバックをもらいました(恥を巡って少し - Living, Loving, Thinking, Again)。うなずくところがたくさんありますが、ちょっと分からないところもありますので、応答してみたいと思います。

まず、「和辻哲郎『人間の学としての倫理学』を持ち出すまでもなく、倫理は人間(between people)ということを抜きには存立しない」という部分に関しては、間違いなくその通りだと思います。倫理的主体としての人格なるものは、さまざまな関係の内に初めて成立するものだと思っています。

同様に、「人間が他者に見られている、他者に晒されている存在であること、さらにはその見られていることを意識する存在である」という点に関しても、その通りだと思います。我々は、まさに他者に対して表現をすることによって、自己自身になるというのは間違いのないことです。

しかし、ちょっと引っかかってしまう箇所もあります。恥がそこでどう機能するか、ということです。

個体発生的にも、羞恥心は、「世間」を知る以前に、人見知りとともに、つまり他者を意識し始めるとともに発生する。また、私たちが「恥」を感じるのは先ず特定の具体的な他者に対してなのではないだろうか。「世間」に対する以前に。

発達心理学には詳しくありませんが、子供が世間に参入する前に人見知りをし、羞恥心をもつというのも確かでしょう。そして恥を感じるのは、いつも大抵、特定の他者相手にです。例えば学校の教室で変なことをしてしまって恥ずかしいと思うのは、クラスのみんなや先生に対してです。しかしそれは、"「世間」に対する以前"というわけではありません。

これは、こちらの「世間」という言葉に関しての説明が足りなかったせいかもしれません。世間というのは、ハイデガーの言うDas Manで、自己の本来的な可能性から自己を了解するのではなく、世界の方から自己を了解した状態を指します。ここで世界とは、何かを了解するための共通の地盤のことを指します。それ故、世界抜きにしては自己も了解できませんので、たとえ本来的な了解に達したとしても、世間を抜け出すということは不可能です。

上の学校で恥ずかしい思いをしたという例を見てみましょう。我々は、学校の教室を成り立たせるような、さまざまな共通の意味の地盤の上に立って、教室の中の色々なものと接しています。教壇や黒板は先生が授業をするために必要なもの、ロッカーは掃除用具を入れるためにあるもの……等々です。具体的な他者もそうです。先生は先生として、同級生は同級生として、それぞれ教室を成り立たせるような共通の意味の地盤の上から出会われるものです。そして、基本的に我々はいつも世界を通して了解していますので、具体的な他者はいつも世間を通して出会うとも言えるわけです。

しかし日常的に身を置いている意味の連関から離れることはできます。たとえば、戦争で中国大陸に出かけた時がそうです。大陸での軍隊生活という、普段身を置いているムラとしての意味の連関から離れて、別の意味の連関を動き出します。そこでは、ムラの中では決してできなかった恥ずかしいこと、略奪、強姦、殺人、といったことを平気で出来てしまったりします。ムラの中での意味の連関では恥だったものが、別の連関では恥でなくなってしまうのです。

なぜ、別の連関では恥でなくなるのでしょうか?それは端的に言って、恥は誰かに対して恥ずかしいと思う、誰かからどう見られるのかという視点から成立する感情だからです。それはまさに世界の方から自己を了解しようとする、典型的な世間的了解です。しかもこのときの世界は、ムラという狭い特殊な意味連関においてです。それ故、ムラの意味連関から自己を了解している限り、中国人にどう思われても自己了解に支障は来さないのです。軍隊ではみなやっているし、大陸の人にどう思われても構わない、ムラでの自己評価には一切かかわらない、と。

もっと卑近な例でいえば、小学生の時は授業中にうんこをしに行くと恥ずかしかったけれど、高校や大学ではそれほど恥ずかしくない、というのはどうでしょうか。小学校の教室という意味連関から自己を了解する限りでは恥ずかしいことが、ほかの連関で自己を了解する場合は恥ずかしくないのです。

ここまで説明すると、「人の匿名的な集合としての世間」が恥の主体となっているという詳しい意味がわかると思います。恥が成立するのは、もちろん具体的な他者との関係においてですが、そこでは本来的な自己の可能性から自己を了解するのではなく、ある一定の意味の連関から自己を了解している時と言えましょう。そこでは主体は自己にあるのではなく、自らが身を置いている意味の連関の側にあります。こうしてわれわれの自己を含む主体が、誰でもあり誰でもないという世間であるという言い方になります。

また、以下の部分はかなり気になりました。

大村英昭氏(「ネットワーク社会と「文化疲労」in 『文明としてのネットワーク』*2)は、「恥の文化」は「罪の文化」よりも人間にとってより根源的且つ普遍的であるという(pp.200-201)。それは、人間が他者に見られている、他者に晒されている存在であること、さらにはその見られていることを意識する存在であることに関わっている*3。曰く、「見られる意識の深化によって、ひとは、(動物にはない)羞恥心を持つようになり、故に、かの「罪の文化」よりはるかに普遍的な「恥の文化」をも発展させることになったのである」(p.200)。また、「「罪の文化」が、内面(実は、特定の中身だけ)を重視する、いわばイデオロギー時代の特産物なら、「恥の文化」は、外見にこだわる普遍人間的な態度そのもののことだといって過言ではない」(p.201)。ここでは、「恥」というのが他者に対して自らを露出させている(さらにはそれを意識する)という人間存在の在り方に由来しているということを押さえておく。

恥が他者に対して自らを露出させているという人間存在の在り方に由来している、というのは特に異存はありません。その意味では、恥とは根源的で普遍的な感情である、と言えるでしょう。しかし、根源的で普遍的な感情であるとしても、恥の文化が普遍的であることが直接に帰結するかと言えば、それは別に論証を要することです。恥という根源的な感情に訴えるので、「恥の文化」というものの内実が分かりやすく伝えられる、というのならばそれはそうでしょう。ただそれが、文化の普遍性といえるのかどうかは微妙です。それとも、文化人類学的に、ほかの文化圏の多くは恥の文化を共有しているという話なのでしょうか?

もちろん、『文明としてのネットワーク』には、そこでち密な論証が繰り広げられているのかもしれませんが、罪の文化と恥の文化のナイーブな二項対立に立脚して、"「罪の文化」が、内面(実は、特定の中身だけ)を重視する、いわばイデオロギー時代の特産物"と断罪して見せる身振りからすると、あまり期待できそうにないというのが、正直なところです。こうした素朴な二項対立自体が、古臭い"イデオロギー時代の産物"のように思われるからです。『文明としてのネットワーク』を読んでませんので、ひょっとすると、恥の文化と罪の文化という安易な二分法を疑い、しかし、そのうえで違いを確認し、さらに優劣をつける、というものすごく野心的な論考なのかもしれません。しかしそれならば、ゆうに一冊の本丸まる必要な分量が必要に思われます。

以上、ちょっと長くて読みにくくなりましたが、sumita-mさんへの応答です。なにぶん、『文明としてのネットワーク』を読んでませんので、誤読がありましたら申し訳ありません。