恥の意識がなくなっても特に終わらない

たまたま以下のエントリが目に入りました。
恥の意識がなくなったら終わり - チョコっとラブ的なにか
私は「恥」というものが決して倫理になりえないと考えているので、そのことを書いおきたいと思います。
そもそも恥の文化などないような気もしますが(例えばここを参照)、id:love_chocolateさんが書いているような、

「人に迷惑をかけるような事は恥ずかしい事をしない」と言う意識というか道徳規範

について考えていきましょう。

恥は内向きの論理

まず第一に気になるのが、誰に対して恥ずかしいのかということです。「人に対して恥ずかしいようなことをしてはいけません」ともlove_chocolateさんは書いています。しかし、この「人」というものは実体がありません。ハイデガー的に言えば、誰でもなく誰でもありうるような「世間」というヤツです。つまり、「世間に顔向けできないことをするな」ということが「人に対して恥ずかしいようなことをしてはいけません」ということと同義であるということです。このことは、一歩でも世間というムラを離れれば、「恥」というブレーキが利かなくなるということです。それは、日中戦争中に"徹底的に「恥の文化」を教え込まれた"はずの戦前世代の人たちが大陸で何をしたかという点を見れば分かります。例えば南京での残虐行為も、世間に顔向けできないとは思わなかったようです。そして、南京で残虐行為を働いた人たちも、世間というムラに帰れば、よき夫、よき父親になったのです。

そして第二に、恥ずかしくなければやって良いのかということです。つまり、「みんなやっているから」と不正を働くことが許さることにはなりはしないかということです。"徹底的に「恥の文化」を教え込まれた"戦前世代の人たちは、もちろんみんながやっているから別に恥ずかしいこととは思わずに、部落差別や女性差別を行ってきました。基本的に現代での「いじめ」も、「みんながやっているから」正当化されるものではないのでしょうか?

恥は倫理の基盤になりえない

「人に対して恥ずかしいようなことをしてはいけません」という教えは、何が良いことで何が悪いことであるかは教えてくれません。世間の暗黙的な了解のうちに、これは恥ずかしいこと、これは恥ずかしくないことと分類されるだけです。そして、そのような世間のコードから外れるものは、「恥ずかしいヤツ」と世間から糾弾されるのです。しかし、世間のコードの方が間違っていることがあるということも確かです。私たちが悪いことをしないのは、それが恥ずかしいからではなく、それが悪いからであるべきです。恥ずかしかろうとなかろうと、悪いことはすべきではない。恥ずかしいことでも、それが正しいことならば為すべきです。

「人に対して恥ずかしいようなことをしてはいけません」という教えは、倫理の基盤に人の匿名的な集合としての世間を置いてしまいます。その結果、人や世間に暴力的な抑圧が働いていたとしても、それを隠蔽してしまいます。例えば様々な差別がそうです。世間的な知の中では気付かれない差別はたくさんあります。そのような抑圧の中で差別に苦しんでいる個人が立ち上がって叫ぶとしたならば、その叫びに真摯に耳を傾ける必要があります。たとえ、差別の告発者が、世間から見たら恥ずかしいと思われるような人であったとしても、です。むしろ、そういう人たちを恥ずかしく思ってしまう自分たちの世間のコードこそ問題にされるべきなのです。

迷惑も倫理の基盤になりえない

では、"「人に迷惑をかけるような事は恥ずかしい事をしない」と言う意識というか道徳規範"は、実は「恥」に力点があるのではなく、「迷惑」に力点があるのだという反論はどうでしょうか。迷惑をかけないという規範があって、それを支えるのが恥の意識だというのです。

しかし残念ながら、「迷惑」も倫理の基盤とはなりえません。

私の98歳になる親戚は、完全に認知症が進んでしまって、部屋中をウンコまみれにしてしまいます。介護する親族にとって、それはとても迷惑なことです。では、彼女に向って、love_chocolateさんのように"「恥ずかしい」という気持がなくなれば、人間おわってると思う"と言えるでしょうか?部屋じゅうウンコまみれにして恥じない彼女に「人間おわってる」と言えるのでしょうか。もし、人間おわっているのならば、人間に広く適用される人権なども適用されなくなるでしょう。だから、わたしたちに迷惑にならないように、彼女を別途に拘束するということも正当化されます。でも、本当にそれが正しいことでしょうか。彼女は昔のように意識ははっきりしていない、それでも彼女はいまだ生きている、人間としてふさわしい待遇がなされるべきだと考えるべきだと思います。

あるいは、別の例を考えてみましょう。生まれながらにして重い障害を持ち、トイレに行く、部屋の電気をつける、といったことも人を煩わせてしまう人がいるとします。その人は、いわば生活するだけで多くの人の手を煩わせ、迷惑をかけます。その人に対して、"「恥ずかしい」という気持がなくなれば、人間おわってると思う"と忠告できますか。その人は、自分が人の手を煩わせることにいちいち恥を感じなければいけないのでしょうか。

介助する家族は愛情があるのだからそれを迷惑に感じない、と反論する人がいるかもしれません。しかし、家族はその人の介助に多くの時間を取られ、自分がもっていた夢や自己実現の可能性を捨てなければならなかったかもしれません。「この子が生まれなければ」と一度も思わないような潔癖な気持ちを介助者に要求しなければいけないのでしょうか。むしろ、迷惑をかけても人間として生きてて良いと言うべきです。

社会保障費削減のための悪名高き「障害者自立支援法」は、障害者がいちいち人の手を煩わせることを迷惑だと考え、その対価として金銭を要求するものです。障害者は社会保障費を食いつぶし、日本の財政を悪化させる迷惑な存在だ、それを恥じよとでもいうべきでしょうか。

もっと極端な話をしましょう。羊水検査によって胎児がダウン症だと診断されたとします。両親がダウン症の子供を持つことは、自分たちの自己実現にとって迷惑なことだと考え中絶したとします。しかも妊娠初期の胎児ならば、まったく器官も形成されておらず、迷惑だと感じることも不可能です。ここでは、誰にも迷惑がかかってはいません。では、これは正しいことでしょうか。私には、迷惑という観点で生まれるべきではない命というものを選別することが正しいこととは思えません。

この場合でも、重い知的障害で恥ずかしいという感覚をほとんど持たない人ならば、「人間おわってるとおもう」から、別に生まれてこなくても良かったと言えるのでしょうか。そんなわけはないと思います。

迷惑は倫理の基盤にはなりません。むしろ、迷惑でもその人が生きるということに価値を見出す、そこに倫理の基盤があるべきです。

簡単にまとめると

以上のように、"「人に迷惑をかけるような事は恥ずかしい事をしない」と言う意識というか道徳規範"は、真の意味での倫理的基盤にはなりえないと言えます。

第一に、「恥」は、世間やムラの外に出れば失効してしまうものだからです。
第二に、「恥」は世間に向けての意識でしかなく、世間が抑圧している悪が隠蔽されてしまうからです。
第三に、「迷惑」という基準では、迷惑をかけながら、それでも生きていこうとしている人を価値ないものとみなすことにつながってしまうからです。