竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』

仏教は本当に意味があるのか

仏教は本当に意味があるのか

刺激的なタイトルにつられて購入。初版が1997年なので、12年前の著作である。本書の中で明示的に書かれているわけではないが、書かれた時期を考えれば、オウムの地下鉄サリン事件などを受けて、仏教のあり方、そして仏教と現代社会との関わり方について考えざるを得なかったのだろうという推測は可能であろう。

著者は冒頭にこう書く。

仏教とはなにか。この問題は当然、仏教学の最も中心の問題であると考えられる。仏教学という学問は、まさにこの「仏教とは何か」を明らかにする学問のはずである。しかし、現在の仏教学は、この問題に応えているであろうか。私の見るところ、極一部を除いて、ほとんどがかなり細分化されたテーマを追っているのみ、というのが実情である。仏教学者の大半は、仏教とは何かを明らかにしようという課題は意識せず、好事家が喜ぶような末梢的な問題を詮索し、業績を上げて満足している。

このような問題意識のもと、仏教の核心となるものを取り出そうと試みるのが本書の特徴である。

本書の構成

本書の構成は、以下のようになっている。

第一章 釈尊大乗仏教
第二章 仏教の言葉と真理
第三章 大乗仏教の覚り
第四章 縁起思想再考
第五章 大乗仏教の共同体
第六章 現代社会と仏教
第七章 浄土真宗大乗仏教

まず、歴史上の釈迦と仏と大乗仏教の関係が説かれ、仏教における真理が問題にされる。そして、大乗仏教の覚りがいかなるものかが問題にされ、それが釈尊の言葉とも矛盾しないことが見られる。さらに、釈尊が説いたとされる縁起の思想について詳しく検討し、それが意味するところを明らかにしようとする。そして、大乗仏教の共同体について、経典と歴史的に形成された教団の双方を見て、現在の教団のあり方を批判した後、現代社会との関わりの中で悟りや縁起思想が語っている根本的な核心を取り出す。そして最後に、絶対他力を標榜する浄土真宗大乗仏教と言えるのかを明らかにするのである。

覚りと縁起

本書の大きな論点になるのは大乗非仏説と、悟りの内容、縁起思想といったところであろう。
大乗非仏説とは、釈迦入滅のはるか後に成立した大乗経典や教団を仏教とは認めない立場である。著者は大乗非仏説を採らない。原始経典の中にある釈迦が覚りについて説明した言葉と、大乗経典が語る覚りの世界が相応するものであるとして、むしろ釈尊の精神を引き継ぐものであると主張するのである。

では、この覚りとは何であろうか。それは端的に言えば、八不、つまり「不生亦不滅、不常又不断、不一亦不異、不来亦不出」という一切の二元対立を越えた、最も自由な主体が成立する立場である。また、このようなあらゆる二元対立に囚われない真に自由な主体を釈尊もまた説いたことが、非常に古い文献の検討を通して跡付けられるのである。

このような自由な主体というものを考えるとき、あらゆる事象を関係性の中に解消する縁起思想というものとの関連が問われることになる。つまり、すべてが縁によって起こるならば、自由な主体というものもありえないだろうということになるからである。縁起思想に対して著者が主張するのは、縁起思想は単にすべてが因果関係で説明されることを述べているのではない、迷いの原因である根本的な無知を取り除いて覚りの世界に向かうことを述べているのだ、ということである。そしてむしろ、我々の自己が関係性の中にあるからこそ、我々の自己が仏の働きを生きることが可能になっているということ、また他者に対して働きかけることが可能になっているということが強調されるのである。

まとめ

そこで、以下のように言われることになる。

大乗仏教は、それまでエゴイズムに生きるしかなかった自己が、仏の恵みにあづかり、他者に開かれた自己を志向しようと転ずるところろにある。とはいえ、初心のうちは依然、悪を犯しつづけるしかないことであろう。その初心は長くつづくことであろう。しかしそのような自己を省みるとき、大乗の道に連なるが故に、諸仏諸尊に懺悔され、十万無数の諸尊の大悲に包まれる中で、少しずつ、可能な範囲で、他者のために生きようとの想いがおのずから起きてくるであろう。そして理想的には、自ら願って世間に入り、あるいは悪趣に入っていくという、願生の菩薩として実現しよう。あるいは、自らは決して成仏すまい、ずっと娑婆の人々ともにいようという、大悲闡提の菩薩として実現しよう。

また、

自他関係の中に成立している自己の意義に目覚め、他者を自在に利益しうる主体を実現することを究極の目標とする

とも言われる。

著者は、「仏教とはなにか?」という問いにこのように答えるのである。

多くの経典や論書を渉猟し手堅くまとめつつ、冒険的な主張も試みるという、非常にスリリングな一冊であったと言えよう。仏教教学者の中には、反論する向きもあるかもしれないが、仏教の核心を取り出しよみがえらそうとする姿勢は高く評価できるものである。