大正野球娘。

電車の行き帰りに軽く読める本を、と思って買ったのだが、失敗だった。しかも、長時間の移動用に三冊まとめ買いしてしまったので、ゲンナリも三倍に。

大正野球娘。 (トクマ・ノベルズedge)

大正野球娘。 (トクマ・ノベルズedge)

ブックマークのタグで「サブカル保守」という言葉を見かけたが、これはもう「サブカル保守」を通り過ぎて、「サブカルバックラッシュ」と呼んでもいいのでは?という気分になった。

表題から想像するのと真逆のメッセージ

タイトルを見て、「大正デモクラシーを背景に、権利意識が強まった少女達が野球を始める」という話を想像していた。しかし、少女が野球を始めるのは確かだが、権利意識とはまったく関係がなかった。野球を通して少女達が自立していく話を想像していたのだが、むしろ逆で、野球を通して少女達が男に愛されるようになるという話であった。

とにかくこの作品が発するメッセージは、「親の定めた結婚には決して異議を唱えない」、「女の幸せは男に愛されること」、「女は、男を立てることによって逆に男を操縦する、それが男女関係円満の秘訣」という家父長制や異性愛中心主義を肯定するメッセージばかりである。

さらに、「乙女らしくお淑やかに」という言葉が嫌になるほど繰り返されるのが腹立たしいし、アンナ先生が出てくるたびにバストやヒップが大きいことが執拗に繰り返されるのも嫌な気分になる。ここに出てくる少女達は将来的に男性優位の規範に従属することが決まっているし、外国出身の職業婦人は徹底して性的な眼差しの元に晒され続ける。

この話をまとめると、「自分に無神経な発言をした許嫁に意地を見せたい小笠原晶子のために、彼女と友人の少女達が野球をする話」となる。ここだけ見ると、無神経な男を懲らしめる話、に見えるが実はそうではない。結局野球でも女は男に勝てないし、小笠原晶子も男を立てながら操縦するすべを学ぶことによって幸せになる。小笠原晶子の許嫁も、自分の出来る範囲の誠意だけを見せればいいだけで、愛されるに足る人間になる努力などは必要とされない。

そしてほかの少女達も自分を愛する男を見つけてハッピーエンド!である。女が野球をやると言っても、決して男には勝てないし、少女達達が3イニングだけの練習試合に勝ったとしても、9イニングあれば必ず男が勝つと執拗に繰り返される。結局、男の権力は脅かされないし、少女のお遊びに付き合えば、パートナーを見つけられるご褒美まで付いてくる。

オタク?の夢

この小説は、さえない主人公の元に美少女が押し掛けてきてやがて結ばれる、というパターンの物語に実はそっくりである。福満しげゆきが「自動的に彼女がいる漫画」と文句を言っているような物語のパターンである。このパターンでは、男は愛されるに足る人物であるから愛されるのではなく、自動的に愛されるのである。それと同じで、『大正野球娘。』も親が許嫁と決めたら、自動的に男は愛されることになる。愛されるのに理由はいらない。せいぜい、野球の相手をしてあげるだけでよいのである。しかも、結局女は男を負かすことはない。

実に都合の良い夢である。何もしなくても、どんな人間でも、自動的に愛されるし、女に負かされるということもない。さらに、百合的な少女同士の交流も出てくるが、それも異性愛中心主義を決して脅かさない程度の話である。少女同士がデートしても、片方は自分の許嫁に申し訳ない気持ちを持ちながらのデートであるし、片方も自分が親の決めた結婚に従うことはもう決めている。自分たちの性愛を脅かさない範囲内で、女の子同士がキャッキャする姿が見たいという、実に男に都合のいい夢が描かれているのである。

リアリティーのよりどころ

もちろん、このような批判に対する言い訳も、作者は用意しているだろう。「大正時代とは、そういう時代だ。少女達は親の決めた許嫁に従ったし、乙女はお淑やかに男を立てることが理想とされたのだ。それに、女が野球をやっても男に勝てないのも事実だ」と。

しかし、そのリアリティーのよりどころを、そのような「家父長制は当時の常識」や「女は野球で男に勝てない」という点に求めるという選択がそもそも恣意的である。目隠しして打席に立ってホームランとか、大リーグ養成ギブスといった点にはリアリティーを求めないのに、男の都合の良い点にはリアリティーを求めるところがそもそも問題である。

なるほど、時代風俗についてはよく調べてあるのかもしれない。しかし、男に都合の良い少女ばかりで、リアリティーのある少女は存在しないのだ。

まとめ

一言で言うならば、男に都合のいい夢を詰め込んだ小説といえよう。そしてその都合のいい夢を詰め込むのに、大正時代という時代が実に都合がよかったのだ、ということになる。

松江哲明監督「あんにょん由美香」

猛烈に忙しかった時期がようやく終わり、久しぶりに一人で映画を観に行ってきた。
東中野「ポレポレ」という映画館で、松江哲明監督のドキュメンタリー「あんにょん由美香」を観た(映画公式サイトはここ、監督のブログはここ)。

内容を簡単に要約すると、アダルトビデオやピンク映画の女優として活躍し、2005年に亡くなった林由美香さんを巡るドキュメンタリーということになる。彼女の追悼イベントで上映された林由美香主演の韓国ピンク映画「東京の人妻 純子」の謎を追うことを縦糸にしながら、彼女に関わり、彼女を愛した男たちへのインタビューを横糸として織り上げられた物語だ。

あんにょん由美香」の劇中にも再三登場する韓国ピンク映画「東京の人妻 純子」は、怪作と言っていいくらい変な映画だが、不思議と松江監督を引き付けるものがあった。松江監督はこの映画に関わった人たちを取材し続け、遂に韓国にまで飛ぶ。そこで、「純子」の主演俳優や監督に松江監督はある提案をして……という物語を中心に、カンパニー松尾いまおかしんじ平野勝之といった彼女を撮ったほかの監督たちへのインタビューを交えて、映画は林由美香を描き出そうとする。

ここで面白いのは、様々な人が証言する林由美香が、きれいに一つの像を結ばないということである。カンパニー松尾いまおかしんじ平野勝之、それぞれの林由美香の死の受け止め方が全く違う。また、韓国ピンク映画「純子」のコーディネーター的な仕事を務めたカメラマン柳田氏が思わずこぼしてしまった少々下世話な話もいい。松江監督の韓国でのインタビューの後、久しぶりに再会した柳田氏と韓国人スタッフの酒飲み話で浮かび上がってくる「由美香像」もまた、違う像を結んでいる。

もちろんそれは取材の不徹底、林由美香の実像を明らかにしようとする努力不足、というわけではない。むしろ松江監督のもつ由美香像が押し付けられていない、ということだ。少しずつ異なった由美香像を通して浮かび上がるのは、逆に林由美香という存在の圧倒的な存在感である。少しずつ異なる林由美香像によって、平板な林由美香像ではなく、立体的な林由美香像が結ばれてくる。そしてまた、彼女の不在を通して、逆に彼女の強烈な存在感が照射されてくる。彼女がとても人を惹き付ける人であるということが、一つの像を結ばない林由美香のイメージから逆に浮かび上がってくるのである。

おそらく、文章や評伝ではこういう効果は生まれないだろう。それらでは、どうしても書き手の「林由美香は……である」という定義の欲望が抑えられなくなってしまうだろうし、言葉を重ねて像のズレを修復してしまいたくなるであろう。一方この映画は、ドキュメンタリ映像という媒体を通して、作り手の欲望を越えたものを浮かび上がらせることに成功している。ドキュメンタリー映画の醍醐味を味あわせてくれるものとして、この映画はとても素晴らしいものだと言えよう。

日本国民の?

私のブックマークコメントに対して、id:kenkidoさんから丁寧なお返事をいただいたので、それへのお返事をしたためます。

納得できる点

前半は、非常に納得できる点もあり、同じような問題意識を共有しているとも思えます。例えば、

さて、八十年代以降、我々日本人は、政治的偏向、非常識、そして非良識と受け取られないよう、とても気遣ってきた。そして我々は、非偏向な、常識的で、そして良識的なと看做されるところにおさまっていこうとしたし、その枠の中での問題認識とそこよりする批判的議論を試みるようになった。それはまた、我々が、知らず知らず、根本的な原理に溯っての批判に貧弱になった、ということを意味する。そして、そこで最も有力な、あるいは有効な手法は、非常識と非良識を見出すことであった。

という一節は、非常に鋭い指摘で、私が普段思っていることを明瞭に言語化していただけたとも思います。ここで言われることは、確かに一部の「良識的」サヨクや、「現実主義的」サヨクの人たちに確かに見受けられることです。

ところで、この常識、良識、そして無偏向の立場であるが、その今の具体的なものがどんなものであるかを述べるなら、それは、(左翼の消滅によって?、)我々日本人が、《日本国民》として、それを持っているし、持っているはずであるし、そして持つべき立場に収束してしまった、と私は判断している。それは歴史的、文化的に日本と意味付けられたところの、政治的、道徳的な社会的結合を踏まえた存在、すなわち国民が有するし、有すべき常識と良識、新たに加えて教養の立場に、終始するものとなった。公正、公平、正義、更には、客観性、すなわち学問の踏むべき方法や、発見すべきもの、そしてその意味付けまで、すべて、《日本国民》ならば持っているし、持っていなければならないものに、整頓されつつある。

ここも半分以上は、頷けます。良識的でリベラルなサヨクは、「みんな」にどう見られるのかという点で批判したり主張したりすることがあるからです。彼らはその「みんな」を「日本国民」という主体として意識しているわけではないとも思いますが、「みんな」が「日本国民」にすり替わる危険性を有しているのは確かなことです。

しかし、学問的方法が「日本国民」すべてがもっているはずのものとされることに強い違和感を覚えます。ふつう、学問的方法は、国民の共有物ではなく、学を志すすべてのものが共通してもっているものであって普遍的なものであるからです。学問を志さない日本国民は別にもつ必要もないものですし、日常的な営みの中で学問的方法論を発揮することはほとんどまれでしょう。そして逆に、学問的方法論には日本人だろうと、モロッコ人だろうと、学術的な営みをなすものは従わなければなりません。

なぜ、kenkidoさんは、学問的方法論を日本国民ならば持っているものとしたのでしょうか?それは、学術的な話をする私を「日本国民さだまさと」と批判するためです。この批判は、「日本国民は学問的方法論を持っていなければならないもの」とする無理な前提と、私の書いたものに対するアクロバティックな誤読によってのみ可能になるからです。

誤解と明らかな誤読

学問的方法論を、「日本国民が持たなければならないもの」とする無意味な前提をもちこむことによって、以下のような批判が可能になります。

三木清に関しての私山下の主張が、日本国民たるに相応しい教養がなく、かつ、日本国民の踏むべき学問的手法により、しかしてまた日本国民ならば持つべきその対象の意味付けに則っていない、と国民さだまさと氏に意識されたことにより、国民さだまさと氏からそのコメントの文言が出たという以外、私山下には解し得ない。

私が三木清の評価が微妙と書いたのは、もちろんそのような意味ではありません。

三木清の『構想力の論理』を読めば、天皇制をフィクションと考えていたことは明白*1です。天皇主権を唱え、日本独自の皇道を唱えた体制とは明確に距離があり、それを批判しているものでしたから、戦時体制の協力者と断ずることに関して違和感を表明したのです。ただ、近衛時代に彼は翼賛体制の構築に関わっていたことは確かなので、自分の言葉が誤読含みだったと書き、謝罪しました。

もちろん、100字のブックマークにそこまで書ききれることでもありませんが、それを「国民にふさわしい学問論」という異様な前提を取り入れることによって、上のような意味だと言われるとは想像もしていませんでした。「国民なら当然……だ」という論法が、そうでない者に対する暴力として作用することを私は強く批判してきました*2から。

そして、嘉戸一将西田幾多郎と国家への問い』への書評も同じようにアクロバティックな誤読をしていきます。

「西田の国家論を問題にすると、「時代に屈した知識人」とセンセーショナルに論じたり、逆にそれに対して「捏造」や「資料を読まずに批判する」と声高に反論するものばかりが目立った。それに対して、西田の国家論を、その背景から浮き彫りにすることを通して、その意義と限界を丁寧に跡付けた本書は、大きな意義があるといえるであろう。そしてまたそれが、西田と戦時体制との関係に対する批判にこたえるものとなっているということも重要である。」

この文章は、kenkidoさんが引用した私の文章です。これが意味しているのは、西田自体のテキストを読み、その意味と限界を明らかにするという世界中で当然に適用されている学問的方法論が今まで欠けていた、ということです。西田を批判する者も、それに反論する者も、ほとんど西田自身のテキストを読みその意味を明らかにすることをせずに、ただ政治的な対立を繰り返していたことが問題なのです。学問以前のものを学術的でないと批判するのは当然のことですし、それは日本に限った話では全くありません。しかし、「学問的方法を日本国民のもの」と限定を加えることによって、以下のような読みが可能になります。

輪をかけて面白いことに、こうした作業は、今日では、良識的であるし、学問的に公平であるし、客観的でもある、とされている。であるから、日を措かずして、常識ともなるであろう。誰のかと言えば、《日本国民》の、である。

嘉戸一将氏の研究が常識になるとして、それはアカデミズム内部であり、世界中の西田研究での話です。しかし、学問的方法論を日本国民のものにしたことによって、あたかもそれを共有できないものは良識的な日本国民に非ずと断言することになってしまうのです。これは、本当に不思議な論理展開です。

私が嘉戸氏の本を評価するのは、今日の象徴天皇制を擁護する言説を根底からひっくり返すようなポテンシャルを西田哲学が秘めており、そこから新たな展望が開ける可能性を指摘したという点です。それは、kenkidoさんがエントリの前半で述べているような、「批判されるべき現実を生み出す原理」にまで届く批判のポテンシャルを有しているものだということを意味します。その上で、西田が時代によく抵抗したとはいえ、明治憲法と自らの体系を接続させようとして、齟齬を来してしまったという指摘も評価すべき点だとしたのです。

ナショナルなもの

私は、自分が日本国民であることを否定しません。個人的にはカント的な世界市民主義を目指したいとは考えていますが、世界市民を自称することによる危険性も十分承知しているからです。日本国民であることを否定することによって、自らが日本のマジョリティーに属することを通して加担してしまっている様々な抑圧を隠蔽してしまう危険性があります。

同時に私は、日本国民の良識や常識を持ち出して、その良識や常識に外れる者を批判したり排除することには反対します。しかし、kenkidoさんは、学問的方法論を「日本国民が有すべきもの」として、学術的な話を「日本国民としてのあるべき姿」の話にすり替えてしまいます。そして、私があたかも「日本国民のあるべき姿」からkenkidoさんを批判したことにしてしまいます。このようなkenkidoさんの批判は、誤解と誤読だということをはっきりとここに述べておきます。

*1:

三木清―人と思想 (CenturyBooks)

三木清―人と思想 (CenturyBooks)

id:sarutoraさんがブックマークで紹介されていた本です。この本自体は読んでいませんが、この本の内容紹介には、私が述べたことと似たことが書かれていますので、参考に挙げておきます。

*2:私のブックマークページから、「暴力と政治」や「反差別」というタグのついたものを参照してください

「現実は残酷である」という論理と喪の倫理

id:hokushuさんの柴村仁、見下ろす、落語 - 過ぎ去ろうとしない過去というエントリに関連して。

hokushuさんのエントリを読みながら、秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』のことを思い出した。そしてまた、桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』も一緒に思い出したのだった。この二つの小説は、同じように残酷な現実を描いた小説だが、個人的な読後感は全く正反対のものだった。この二つの読後感の違いについて述べることによって、hokushuさんの柴村仁我が家のお稲荷さま』批判を検討してみたいと思う。ただ、秋山瑞人の小説は手元にないため記憶を頼りに書くので、もし記憶違いがあれば平にご容赦願いたい。

語ることと語れぬこと

秋山瑞人は、『イリヤの空、UFOの夏』において残酷な現実とそれに押しつぶされる子供を描く。これは秋山の前作『猫の地球儀』から踏襲されている主題である。そしてこの両作品に共通するのは、この残酷な現実を維持しようとする「大人」が、それに抗おうとする「子供」に説教をし、子供はその大人の論理に反論できないという構造をもっているということである。『イリヤ』では榎本がその「大人の論理」を体現し、『猫の地球儀』では僧正がその役目を負う。彼らは、この世界が残酷だと認め、そしてその残酷な現実を維持することこそ大人の役目であることを力説する。子供はそれに反論できず、現実に敗北する。

一方、桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』も同じように残酷な現実に押しつぶされた子供が描かれる。無力な少女は現実に向って「砂糖菓子の弾丸」を放つが、決して現実を撃ちぬくことはできない。ただ、大人の論理を体現するように見えた教師も、現実を変える「スーパーマン」を目指していたことが明らかにされる。ここで大人になるということは、単に現実を肯定することではないことが示唆されている。砂糖菓子の弾丸ではなく、実弾で世界に立ち向かう可能性としての、大人の姿が描かれているのである。

しかし、『イリヤ』と『砂糖菓子』の物語の大きな違いは、事件に対するその後の主人公の態度の違いとして端的に表れている。

イリヤ』において、主人公の浅羽は、いつかこの事件を語れる日が来ることを予感している。同じ新聞部のクラスメイト須藤晶穂に、「何があったのか言いなさいよ」と問い詰められた時に、近い将来彼女に語れるようになるだろうことを感じている。

一方、『砂糖菓子』では以下のように語られている。

(……)生き残った子だけが、大人になる。あの日あの警察署の一室で先生はそうつぶやいたけれど、もしかしたら先生もかつてのサバイバーだったのかもしれない。生き残って大人になった先生は、今日も子供たちのために奔走し、時には成功し、時には間に合わず。そして自分のことについては沈黙を守っている。
 あたしもそうなるかもしれない。
 あたしは、暴力も喪失も痛みもなかったふりをしてつらっとしてある日大人になるだろう。友達の死を若き日の勲章みたいに居酒屋で飲みながら憐情たっぷりに語るような腐った大人にはなりたくない。胸の中でどうにも整理できない事件をどうにもできないまま大人になる気がする。だけど十三歳でここにいて周りにはおなじようなへっぽこ武器でぽこぽこ変なものを撃ちながら戦っている兵士たちがほかにもいて、生き残った子と死んじゃった子がいたことは決して忘れないと思う。
 忘れない。

ここに、二つの物語の架橋しがたいほどの差異が見出されるだろう。

イリヤ』の浅羽は、語ることを通して忘れていくことを選んでいる。彼にとって大人になるということは「現実は残酷である」という論理を内面化し整理することによって、やがて子供のころの自分を語れるようになるということである。そしてそのことによって、自分が現実に敗れた子供であるということを忘れるのである。

一方、『砂糖菓子』では、語ることを拒否する。自分のことについて沈黙を守る先生の姿に、自己を重ね合わせる。そしてそれは、決して忘れないということを意味する。大人になるということは、砂糖菓子とは違う弾丸を手に入れることであるが、砂糖菓子のような現実に歯が立たない弾丸を撃ちつづける子供に寄り添いつづけることが誓われている。

この違いを次のように言いかえることができるだろう。語ることを通して忘れるという弔いと、語れないことを通して忘れないという、二つの弔いの形の違いとして。両者とも弔いであることは変わらない。ただ『イリヤ』は、今はまだ語れないけれどやがて語れるようになる、という一定の沈黙期間すなわち喪が明けるのに対して、『砂糖菓子』では喪が明けないということに差異がある。「語らず、忘れない」という喪の倫理を抱きつづけることに『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の大きな特徴があるのである。

柴村仁と弔い

hokushuさんが柴村仁の『我が家のお稲荷さま。』をちゃんと読んでいないであろうことは、K_NATSUBATAさんのこの指摘の通りであろう。
主人公の昇と透兄弟がトラブルに巻き込まれるのは、兄の昇が三槌家の当主として地域の霊的な顔役であるということと、三槌の血を濃く引く弟の透が「美味しそう」な匂いで妖怪を引きつけてしまうということに尽きるのであって、母親とはほとんど関係がない。しかし、一巻に限って言えば、死んだ母親を成仏させる話であり、その限りでは話の中心に母親の不在があるということも確かである。

しかし、この作品での弔いは実に巧妙にできている。しばしば死者を送ることが、同時に死者を忘れていくことの一歩となるという点を回避するのである。それは、弟の透ための弔いであるからである。弟には幼くして死別したために、母親の記憶がない。忘れてしまった母親との、新たな絆を求めるという形をこの弔いがとるのである。大霊狐である空幻天狐による御霊送りによって、母親は成仏するのだが、その成仏の前に透と言葉を交わす。ここでの弔いは、死者を忘れるのではなく死者と絆を結び直すという形をとる。

ここで問題は、このような弔いが「不在を突き付けることによって、不在を見下ろす視点をとる」というhokushuさんの批判が当たるかということである。おそらく柴村仁は『我が家のお稲荷さま。』において、そのような批判をすり抜けるような戦略をとっているのではないだろうか。「現実は残酷である」という論理を内面化し忘却するのでもなく、「語らず忘れない」という喪の倫理を抱きつづけるのでもなく、死者と絆を結び直すということを通して、不在を不在として受け取らない道を可能にしている。それ故、続刊では、傷を抱えて沈黙を生きるのでもなく、残酷な現実を内面化するのでもなく、なんとなく好い人が集まってなんとなく善い結末を迎えるという話がつづくことになるのである。

しかし、そこにあざとさがあるのも否めないのかもしれない。柴村仁が『プシュケの涙』ではそのあざとさが前面に出てしまっているようでもある。プシュケの涙でも、自殺した女子生徒を一番悼んでいるであろう人は、そのことについて何も語らず内面も窺えない。しかし、物語が女子生徒の不在を際立たせる形をとることによって、彼の痛みを突き付けるのである。何も語らず進学する彼に代わって、物語自体が間接的に彼の痛みを語るのである。そこには、やはりある種の問題を回避しながら死という事態を語ろうとしている柴村仁の姿がある。ここが問題であろう。

最後に、死と暴力とセックスのことしか書いていない、倫理的な小説を挙げよう。

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

超お勧め。

嘉戸一将『西田幾多郎と国家への問い』

連休中は、風邪をひいて寝込んでいました。
連休前に無理をして諸々を終わらせ、その反動で連休中は寝込むということを最近繰り返しているような気がします。
そんな中、読んだ本がこれ。

西田幾多郎と国家への問い

西田幾多郎と国家への問い

帯には「主権としての絶対矛盾的自己同一」との言葉が。

主権をめぐる問い

この書は、西田のある書簡を出発点に据える。その書簡とは京大の同僚であった田中秀央に宛てた手紙であり、ジャン・ボダンの『国家論』ラテン語訳についての質問である。西田はボダンの「主権」についてのくだりに関して、

法によって束縛せられ即ち法から
自由な権力といふ様に解せ
ないでせうか

と田中に訊ねたのであった。

ただし、ボダンは主権を「法に束縛されず法から自由な権力」としており、この質問は西田の語訳に基づく質問であった。しかし著者は、どうして西田が「法に束縛されつつ法から自由である」という奇妙な主権解釈を構想したのかということをさらに問題にしていくのである。

そのため、著者はまずは「主権」という問題がいかに問われてきたのかを論じることから始める。ジャン・ボダン、カール・シュミット、フリードリヒ・マイネッケの主権論を問題にし、さらに明治時代の井上毅穂積八束天皇機関説などを概観しながら当時の主権をめぐる問題状況を明らかにする。そこでは主権の問題は、法と法の起源、法の定礎、準拠の問題とされる。

西田は、法の定礎に「絶対無」を置く。それはあらゆる主権「者」を主権の位置から排除する論理として考えられる。いかなる人間や政府、機関も主権者の位置を占めるはできない。ただ、絶対無という虚構=擬制への信に基づくことによって、法の絶対性と永続性が担保されるというのである。もちろんそれが意味するのは、いまある法が絶対的なもの永遠なものとみなすということではなく、法制度が保証されるということである。法によって人格が承認され、人格によって立法されるという循環関係が、絶対無に対する「信」によって担保されるのである。

この西田の立場は、田辺元和辻哲郎天皇機関説が構想した主権論に比べて、徹底的にラディカルな立場とされている。というのも、彼らの立場は天皇制の「歴史的正統性」に国民の紐帯を見出すのに対して、西田の立場はそのような歴史的正統性という虚構=擬制に依拠せずに、個の自由と責務、共同性・制度性を明らかにするからである。

西田の国家論の躓き

しかし、西田の国家論にも限界はある。彼が自身の国家論を明治憲法と接続させようとするところに、無理が生じてしまう。というのも、西田が天皇制を絶対無と同一視してしまうことによって、あらゆる実体を拒むはずの絶対無が実体化されるからである。

西田は、天皇を、主体ではなくその時々の政府の正当性を保証する機能として考えた、とされる。それは、当時の国体論に対する対抗言論であり、天皇主権説に対する反論であった。その意味では、著者は西田の皇室論にも一定の評価を与える。しかし、そのことによって西田は天皇機関説象徴天皇制へと接近してしまう。それは、そこから越え出ることができるポテンシャルを有していたはずの議論に自らの理論を落とし込んでしまうということも意味しているのである。

西田は、狂信的な国体論によく対抗したとは言えるが、天皇制はやはり彼にとっての躓きの石であったのである。

本書の意義

西田の国家論を問題にすると、「時代に屈した知識人」とセンセーショナルに論じたり、逆にそれに対して「捏造」や「資料を読まずに批判する」と声高に反論するものばかりが目立った。それに対して、西田の国家論を、その背景から浮き彫りにすることを通して、その意義と限界を丁寧に跡付けた本書は、大きな意義があるといえるであろう。そしてまたそれが、西田と戦時体制との関係に対する批判にこたえるものとなっているということも重要である。

さらにまた、中世のソールズベリーのジョンから現代のミシェル・フーコーに至るまでの国家論の系譜の中で西田を論じることによって、その現代的意義を明らかにするものとも言えよう。

ただ惜しむらくは、著者の関心から外れるためか、法を支える「信」の問題や「宗教」への問題に関する踏み込んだ議論がなかったという点である。とは言え、知的興奮を味あわせてくれる好著であることには間違いがないであろう。

私がサヨクになったわけ

id:F1977さんのエントリを受けて、つらつらとお返事をしたためてみます。
F1977さんがご自身のエントリにつけられたブクマを見ると、「読み直したらはずかしくなって消そうと思った」となっておりますが、エントリ自体は生きているようなので、まあ、答えても問題ないかな、と。

まずは自分語りから

自分が左傾化したのは、間違いなく小林よしのりの『戦争論』や一連の従軍慰安婦問題に対する発言を読んだからです。
それまでは、戦争責任やら暴力の話を熱くする人たちを、むしろ冷めた目で見ている人間でした。「言いたいことは分かるけど、そんなに青筋立てて話しても、ついていけないよ」みたいな感じで。
しかし、ゴーマニズム宣言ファンの友人に読まされた小林よしのりの書物に、私は頭を打ちのめされるような衝撃を受けました。

  

この異様な悪意は何だ?

  

従軍慰安婦問題の被害者や、日本軍による大陸での蛮行の被害者たちに対する、異常な憎悪。
彼らを支援しようとしている人たちに対する、攻撃。
もちろん、出版される書物ですから、あからさまな差別表現のようなものはなかったように記憶しています。しかし、マンガの画面全体から漂う異様なムードに、胃のあたりがキュッと縮まるような感覚を覚え、気持ち悪くなってしまいました。

翌日、近所の大きな本屋に行って、南京事件従軍慰安婦関連の本を長い時間をかけて立ち読みし(当時は本当にお金がなかったのです、本屋さんすみません)、小林よしのりの主張よりも、被害者を支援しようとしている人たちの主張に分があることを確認して、ようやく安心したのでした。

そしてそれ以降、いわゆる左翼の人たちに親近感を抱くようになりました。

それからは、少しずつ変わっていきました。やがて、南京事件Q&Aの存在に気付き、Apemanさんやbluefoxさんの日記を読んで、そこからリンクをたどっていろいろな人の日記を読むようになりました。そして、はてなブックマークなるものの存在を知り、ブクマにも唖然とするようなものが多いということに気付きました。そこで、ブックマークで支援したり反論したりするためにはてなIDをとり、ついでに日記も書き始めたのです。

質問に対するお答え

以上のような私の自分語りから、F1977さんへのお答えが導き出されます。
1.日本のサヨクとは、なにか、サヨクである、あなたがたは何か
 小林よしのり戦争論への違和感から始まったので、日本のサヨクサヨクの人達を次のように考えています。ただしこれは、「左翼」という政治勢力の定義とは異なるものであり、あくまで私の中での片仮名の「サヨク」の定義です。
 日本のサヨクとは、過去の日本の問題を直視し、そこに生じている責任を引き受けることによってはじめて「日本人」となれると考えている人たちのこと。またそれは同時に、現在の日本の社会にある抑圧や暴力を可視化し、異議を唱えていくということを含んでいる。というのも、日本人であるということですでに抑圧に加担してもいるからである。

2.わたしたち(「在日」の人たち)に対する寛容の限度
 寛容の限度という問題設定がおかしいと思っています。日本人が、在日の人たちを「寛容にも許してやる」なんて言う権利がどこにもありませんので。日本で日本人が犯罪を犯しても、彼らは「日本から出て行け!」とか「基本的人権や諸々の権利をはく奪しろ!」とは言われません。それと同様に、在日の人たちに対しても、彼らがいかなる行いをしたとしても、寛容の限度などという線引きをせずに、同じ社会の成員として引き受けるべきだと思っています。また、同様に、社会の一員として政治的決定のプロセスに参加する権利を有しているとも思っています。

多分、サヨクの最大公約数にもなっていないような考えだとも思いますが、以上のような答えを考えました。

竹村牧男『仏教は本当に意味があるのか』

仏教は本当に意味があるのか

仏教は本当に意味があるのか

刺激的なタイトルにつられて購入。初版が1997年なので、12年前の著作である。本書の中で明示的に書かれているわけではないが、書かれた時期を考えれば、オウムの地下鉄サリン事件などを受けて、仏教のあり方、そして仏教と現代社会との関わり方について考えざるを得なかったのだろうという推測は可能であろう。

著者は冒頭にこう書く。

仏教とはなにか。この問題は当然、仏教学の最も中心の問題であると考えられる。仏教学という学問は、まさにこの「仏教とは何か」を明らかにする学問のはずである。しかし、現在の仏教学は、この問題に応えているであろうか。私の見るところ、極一部を除いて、ほとんどがかなり細分化されたテーマを追っているのみ、というのが実情である。仏教学者の大半は、仏教とは何かを明らかにしようという課題は意識せず、好事家が喜ぶような末梢的な問題を詮索し、業績を上げて満足している。

このような問題意識のもと、仏教の核心となるものを取り出そうと試みるのが本書の特徴である。

本書の構成

本書の構成は、以下のようになっている。

第一章 釈尊大乗仏教
第二章 仏教の言葉と真理
第三章 大乗仏教の覚り
第四章 縁起思想再考
第五章 大乗仏教の共同体
第六章 現代社会と仏教
第七章 浄土真宗大乗仏教

まず、歴史上の釈迦と仏と大乗仏教の関係が説かれ、仏教における真理が問題にされる。そして、大乗仏教の覚りがいかなるものかが問題にされ、それが釈尊の言葉とも矛盾しないことが見られる。さらに、釈尊が説いたとされる縁起の思想について詳しく検討し、それが意味するところを明らかにしようとする。そして、大乗仏教の共同体について、経典と歴史的に形成された教団の双方を見て、現在の教団のあり方を批判した後、現代社会との関わりの中で悟りや縁起思想が語っている根本的な核心を取り出す。そして最後に、絶対他力を標榜する浄土真宗大乗仏教と言えるのかを明らかにするのである。

覚りと縁起

本書の大きな論点になるのは大乗非仏説と、悟りの内容、縁起思想といったところであろう。
大乗非仏説とは、釈迦入滅のはるか後に成立した大乗経典や教団を仏教とは認めない立場である。著者は大乗非仏説を採らない。原始経典の中にある釈迦が覚りについて説明した言葉と、大乗経典が語る覚りの世界が相応するものであるとして、むしろ釈尊の精神を引き継ぐものであると主張するのである。

では、この覚りとは何であろうか。それは端的に言えば、八不、つまり「不生亦不滅、不常又不断、不一亦不異、不来亦不出」という一切の二元対立を越えた、最も自由な主体が成立する立場である。また、このようなあらゆる二元対立に囚われない真に自由な主体を釈尊もまた説いたことが、非常に古い文献の検討を通して跡付けられるのである。

このような自由な主体というものを考えるとき、あらゆる事象を関係性の中に解消する縁起思想というものとの関連が問われることになる。つまり、すべてが縁によって起こるならば、自由な主体というものもありえないだろうということになるからである。縁起思想に対して著者が主張するのは、縁起思想は単にすべてが因果関係で説明されることを述べているのではない、迷いの原因である根本的な無知を取り除いて覚りの世界に向かうことを述べているのだ、ということである。そしてむしろ、我々の自己が関係性の中にあるからこそ、我々の自己が仏の働きを生きることが可能になっているということ、また他者に対して働きかけることが可能になっているということが強調されるのである。

まとめ

そこで、以下のように言われることになる。

大乗仏教は、それまでエゴイズムに生きるしかなかった自己が、仏の恵みにあづかり、他者に開かれた自己を志向しようと転ずるところろにある。とはいえ、初心のうちは依然、悪を犯しつづけるしかないことであろう。その初心は長くつづくことであろう。しかしそのような自己を省みるとき、大乗の道に連なるが故に、諸仏諸尊に懺悔され、十万無数の諸尊の大悲に包まれる中で、少しずつ、可能な範囲で、他者のために生きようとの想いがおのずから起きてくるであろう。そして理想的には、自ら願って世間に入り、あるいは悪趣に入っていくという、願生の菩薩として実現しよう。あるいは、自らは決して成仏すまい、ずっと娑婆の人々ともにいようという、大悲闡提の菩薩として実現しよう。

また、

自他関係の中に成立している自己の意義に目覚め、他者を自在に利益しうる主体を実現することを究極の目標とする

とも言われる。

著者は、「仏教とはなにか?」という問いにこのように答えるのである。

多くの経典や論書を渉猟し手堅くまとめつつ、冒険的な主張も試みるという、非常にスリリングな一冊であったと言えよう。仏教教学者の中には、反論する向きもあるかもしれないが、仏教の核心を取り出しよみがえらそうとする姿勢は高く評価できるものである。