肉を食べないことに理由は要らない

だれが「菜食主義」と名づけるのか。 - hituziのブログじゃがーを読んで、思い出したことがありました。
はじめはブログのコメント欄に書き込もうとも思ったのですが、長くなったので自分のブログに書くことにしました。

私にも、大学に入ってから知り合った友人で、肉を食べない友人がいます。その友人に対して、今まで遠慮して逆に「どうして肉を食べないのですか?」と訊いたことはありませんでした。ほかの友人たちも同様に、なんとなく聞いちゃいけないんだろうな、と思っているようでした。ところが先日、空気の読めないヤツがいて、「なんで肉を食べないんですか?」と質問したのです。

しかし、それに対する友人の答えは「肉の味が嫌いだから」といういたってシンプルなものでした。その解答を聞いて私は驚いてしまいました。「そんな理由だったのか!」と。彼は無宗教を自認する人だったので、宗教的理由ではないにせよ、何らかの思想に基づいて肉を食べるのをやめたのだと思っていたからです。彼は哲学科だし、きっと彼の研究と関係あるのだろうなと想像していました。

でもそのすぐ後に、そういうふうに、「肉を食べないというのは、それなりの思想的背景があるのだろう」という自分の勝手な思い込みがあったことが恥ずかしくなりました。肉を食べないということは、何か特別なことだと勝手に思い込んでいたのです。例えば、ピーマンの味が苦手で食べない、という人は結構います。そういう人がピーマンを食べないのを見ても、「彼はピーマンが嫌いなんだな」と自然に理解できます。でも、なぜか肉を食べない友人の場合には、勝手に、特別な理由があるような不自然なことだと思い込んでしまっていたのです。

そういうふうに勝手に思い込んでしまうことが、id:hituzinosanpoさんのエントリにあるような、

あたりまえだと感じているものにこそ、抑圧が かくされています。まったくもって無自覚の抑圧が。

少数派には名前がある。多数派には名前がない。少数派はカミングアウトするしないの選択を せまられる。多数派は、そんな なやみを しらずに、アイデンティティからの自由を たのしんでいる。肉食主義は無色透明で、ベジタリアンを「菜食主義」と名づけ、イロモノあつかい。これが権力というものです。

という事態なのだろうと、痛感したのでした。