立岩真也『私的所有論』、『弱くある自由へ』

だいぶ前になるがmojimojiさんが紹介していた(ここここ)ので、買っておいたが、積んだままになっていた本をようやく消化。

私的所有論

私的所有論

私的所有論

この本の指摘は明快だ。
まず、我々は他人の自己決定を尊重したいと思うが、しかし自己決定だからといって臓器を売ったり売春したり、自らの命を絶つ、といったことに対しては抵抗を感じてしまう、そういう二つの感情を我々が持っているということを指摘する。

そこで立岩真也は私的所有がそれ自身の根拠を持っているわけではないということを確かめ、それ故、自分のものは自分が自由に処分できるという主張を否定する。しかし、このことは自己決定を侵害することを意味しない。私的所有の原理に代わって、自己決定を擁護する原理として「他者を他者として尊重する」という原理を提案するのである。

そこから、優生学出生前診断などが批判される。出生前診断は、他者として現われるべきものを、自己によって調整しようとする行為であり、他者の現れを阻害するものとして批判されるのである。しかし、障害を持って生まれるということは経済的負担を意味し、出生前診断を通した選択的中絶がなければ生活できない人がいる、という批判が可能かもしれない。それに対して、立岩真也は、そもそも私的所有が原理にならないのだから、財を徴収して再分配する、そのことを通して障害者が障害者としてそのまま生きられる社会を目指すべきだと答える。しかし、これは単に大きな政府を目指すということを意味しない。自己決定の尊重が謳われている社会でもあるので、分配することだけが目的の政府が理想とされ、必ずしも大きい政府と小さい政府という対立項で考えるべきではないとも述べられる。

他者とか自己という言葉が哲学的にさらに深められるべきかもしれないが、しかし社会学者として言いうる限りのことを言い、考えうる限りのことを考える姿勢は非常に素晴らしい。分配の主張をするため左翼に見られるかもしれないが、右翼と左翼という対立自体が経済を軸にした対立であり、立岩真也が考え抜こうとした事柄は、むしろ経済の手前の部分、我々の自己や他者がそれとしてあるということに関する議論なのである。また、文体が独特なのでエッセーみたいに見えるし、実際もう少し簡潔に書けば短くなる気がしないでもないが、それでも厳密に一つの事柄を自分の頭で考え抜こうとした著作である。

弱くある自由へ

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

そして、上のような論考を受けて、今度は介助の問題を中心にしたものがこの本である。自己決定の尊重が言われてきたが、しかし、障害者や老人にとっての自己決定は、周りの者にとって都合のいい自己決定だけが尊重されるのではないか、という問題提起である。

家族にとって老人は手間がかからないほうが嬉しいというのは否定できないであろう。そして、老人のほうとしても家族に迷惑をかけるよりは早く死ぬほうが良いと感じることも多いだろう。その場合、老人が早く死にたいという自己決定が尊重されることになるだろう。だがそれは、その方が社会にとって楽だからである、ということを見落としてはならない。「家族に迷惑をかけない」という理由は、社会で共有すべき介助の仕事を家族に押し付けている結果生じたものである。普通、人はたとえ見ず知らずの他人だとしても、弱っている老人に対して「あなたは迷惑だから早く死になさい」と面と向かっては言えないはずである。弱っている老人であっても生きるべきだという社会的認識は共有されているにもかかわらず、社会はその負担を受け入れず、負担を家族に押し付けているのである。その結果、医師や家族に都合のいい死の自己決定だけが受け入れられることになる。

そこで立岩真也は、死に関する自己決定を尊重する以前に、死にたくないという希望がかなえられるような社会的設計が先であると述べる。家族が介助をしてもいいし、家族に世話になるのが気づまりであるとか、家族がしたくないというならば、別の人が介助すればいい。多くの人が介助に参入できる環境を作り、また介助の仕事で十分な報酬が得られるような社会設計が望ましいとされる。ここで介助に参入しやすい環境とは、例えば24時間介助が必要ない人には、介助者はパートタイム的に介助をし、その他の時間は自分の本業に向えることが可能な仕組みを作るべきであり、パートタイム的であったとしてもそれに見合う十分な報酬が得られるようにする、ということである。

弱いということは自由を持てないということを意味してしまう。しかし、弱くてもいいという自由を可能にするべきだ、というのが著者の主張である。自己決定の尊重が、そのまま自己責任論になり、社会が弱者を切り捨てることを支持する風潮へのカウンターパンチとして、この書は大いに有効であると言えよう。そして、相互信頼という美名のもと、患者と医師、介助されるものとする者、それらの利害が対立することが隠されている現状を告発する書でもある。この意見に賛成しようと反対しようと、安楽死リビングウィルの問題を考えるのに参照すべき書である。